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ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、, 1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))は日本に正教を伝道した大主教〔(肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。 「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述)〔亜使徒:聖ニコライは何を伝え、何をなさったのか 〕、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた〔牛丸康夫『日本正教史』22頁、日本ハリストス正教会教団府主教庁 (1978/05) ASIN B000J8IFP0〕〔長縄光男『ニコライ堂遺聞』143頁 - 144頁、成文社 (2007/04) ISBN 9784915730573。ニコライによる日記が引用されている。当時、正教会が「ロシアの神を信じることは祖国を裏切ることになるのでは」と論争をしかけられていた地方信者の話や、カトリックやプロテスタントの他教派の宣教師から「正教徒になることはロシア人になること」と中傷されていたことが記されている。〕。 ニコライは修道名で、本名はイワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン()。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。 神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは〔、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。 == 生涯 == === 初期 === スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。 在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ・リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニコライ (日本大主教)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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